人気ブログランキング | 話題のタグを見る

豊頃で、二宮金次郎像を調査

 豊頃町教育委員会(教委)は、豊頃管内に現存する 金次郎像計60体の調査・研究結果 をまとめ、冊子を発刊しました。
 豊頃町教委と豊頃町教育研究所が昨年度(20140年度)から取り組み、豊頃町生涯学習推進アドバイザーの永井祥次さん(同研究所生涯学習部長)が各市町村を直接訪ね歩いて調査しました。
 各地の像の現状や建立の由来などを1冊にした貴重な資料で、「今も報徳を大切に思う地域がたくさんあることが、改めて分かった」といいます。

◆60体の状態
◇像そのものが現存するの…55体
◇台座のみが残っているの…4体
◇台座にモニュメントが載っているもの…1体
◆設置場所
 設置場所は学校が55体で最も多く、その中にも閉校した学校が多く含まれます。
◆建立時期

 昭和10年代が26体と多い。豊頃で、二宮金次郎像を調査_b0191190_1213074.jpg 豊頃教委は、二宮尊徳の孫・尊親が町に伝えた「報徳のおしえ」を推進し、おしえの内容を児童・生徒に分かりやすく伝える「子ども報徳訓」を制定しています。
 制定のきっかけは、2002年に廃校となった旧二宮小に、「子ども報徳訓」の名称で、感謝や奉仕の心をうたった教育目標が掲げられていたこと。「素晴らしい。ぜひ“豊頃町版”を作りたい」と、町民らで組織する町教育研究所生涯学習部(部長・永井祥次町生涯学習推進アドバイザー)が、2010年4月から内容の検討を進めて、2011年制定しました。
「子ども報徳」(本文のみ)
 一、真心をもち 明るい人になります(至誠)
 一、進んで働き 努力する人になります(勤労)
 一、よく考え きまりを守る人になります(分度)
 一、ゆずり合い 助け合う人になります(推譲)

 なお仙美里小学校の校庭にも、二宮金次郎像 が、平成13年に創立100周年を記念して建立されています。(写真



《参考:二宮尊徳》
 二宮 尊徳(にのみや そんとく、天明7年7月23日(1787年9月4日) - 安政3年10月20日(1856年11月17日))は日本の江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家。通称は金次郎(正しい表記は「金治郎」)。諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓む。
(中略)
子孫 [編集]
 子の二宮尊行(次男、弥太郎、文政4年(1821年)生まれ。長男の徳太郎は生後すぐに没している)は、尊徳没後も御普請役の命を受け、遺志を受け継ぎ日光山領89村の仕法を推進した。嘉永5年(1852年)4月、近江国大溝藩士三宅頼母の娘鉸子(こうこ)と下野国東郷陣屋で結婚する。慶応4年(1868年)6月戊辰戦争の戦火が今市に及び母、妻子と相馬藩領内に移った。これにより日光山領の仕法は打ち切られた。明治4年、尊徳夫人(歌子)と尊行没する。

 尊行の長男二宮尊親(金之丞、金一郎。
 安政2年(1855年)11月16日生まれ)は明治4年父の後を継ぎ家禄700石を給される。明治10年(1877年)報徳農法を民間で実践する為、冨田高慶を社長に興復社が設立され、副社長に斎藤高行が就任するが間もなく尊親が就任した。富田高慶が没すると社長に就任し、新天地にて実践することを求め、明治29年に社員と探検隊を組織し、開墾に適した土地を探して周り、ウシシュベツ原野を発見した。明治30年(1897年)第1 期移住民75名とともに北海道豊頃村牛首別(ウシシュベツ)に移住し10年で840haも開墾し、宅地や防風林等も含めて興復農場は1345haにも及ぶ大農場となった。またこの間母の鉸子は、尊親の子徳(とく)を札幌に居を構えて養育した。明治40年(1907年)開拓が一段落した為、再び相馬に来住し、妻は報徳婦人会会長となり、尊親は中村城三の丸跡にある相馬家事務所に執事として勤め、「報恩全集」の編纂をした。その後、銀行の取締役、大正6年福島県立薫陶園園長、大正8年(1918年)には報徳学園2代目校長に就任した。尊行の次男富田高英(延之助、安政5年(1858年)生まれ)は、富田高慶の娘と結婚し高慶の養子となる。高英の娘は、相馬家に嫁いでいる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3
by sembiri | 2011-05-04 12:01 | 未分類 | Comments(0)